ピ‥チチチ‥‥‥

小鳥のさえずりに誘われて、クリフトは目を覚ました。

ふと隣のベッドへ視線を移した彼が、はっきり覚醒させ上体を起こす。

「ソロ…?」

隣のベッドで眠っていると思われた彼の姿は、そこになかった。



エンドールの宿屋。

ロザリーヒルへ訪れた後、王家の墓へ赴く前に立ち寄ったこの城下町で、昨夜ソロは熱を

出した。落ち込んだ様子の彼が、夜間いつものように外出したのも承知している。

いつもなら少なくとも夜明け前には戻っている彼なのに。空いたベッドに人気は感じられ

なかった。

(まだ戻っていない‥?)

空いたベッドの傍らに立ったクリフトが、そっと確認をとった。

冷んやりしたベッドに、クリフトが嘆息する。室内を見回しても、戻った形跡は見当たら

なかった。

クリフトはまさか‥と思いつつ、昨晩最後にソロの姿を見た宿の屋上へ急ぎ向かう。

タッタッタ…

バタン! 

階段を昇りきった彼が、少し乱暴に扉を開け放った。

「…ソロ!」

石の床に、ぐったり横たわるソロの姿がそこに在った。

「ソロ‥一体‥!?」

クリフトが慌てて駆け寄ると、彼の様子を窺う。

「‥ひどい熱。…まさか、昨晩ずっとここに‥?」

抱き上げた身体の熱さに驚いた彼が、確認するよう額や首筋に手を当て呟いた。

意識のないソロをそのまま横抱きにし、立ち上がる。

身体が浮く感覚に気づいたのか、ソロがうっすら瞳を開けた。

「…クリ‥フト?」

「ソロ。気がつきましたか? 一体どうしたんです?」

「え‥‥あ、‥オレ。…なんか、戻って来たらボーっとして‥身体が動かなかったから…

床冷たくて気持ちいーし‥‥」

「熱があるからですよ。部屋へ戻ったらお医者様を呼んで参りますから。」

階段をゆっくり下りながら、クリフトが柔らかく笑んだ。

「医者‥? だ‥大丈夫だよ。少し休めば回復するから‥。」

ソロが慌てた様子で拒む。

「本当に‥本当に大丈夫だから‥」

必死で言うソロが暴れた為、クリフトが危うく足を踏み外しそうに蹌踉めいた。

「ソロ‥危ないからおとなしくして下さいね。あなたがそうおっしゃるなら、呼びません

から。ね?」

「…あ。ごめん‥オレ…。…自分で歩くから、降ろしていいよ。」

宥めるように言われ、今になって状況に気づいたソロが、罰の悪そうな顔で申し出た。

「部屋まで運びますよ。すぐですから。」

「でも…」

「医者を呼ばないと譲歩したのですから、あなたも少しは譲って下さらないと困ります。」

「…ありがとう。」

にっこり断言されて、ソロは小さく微笑い返した。



部屋に戻るとクリフトは早速ソロをベッドへ寝かせた。

ふーっとソロが大きな吐息をもらす。クリフトは彼の額にもう一度手を当てると、発熱の

程度を確認した。やはり、大分高くなっている。

「…やはりかなりありますね。どこか痛んだりします? 吐き気は?」

「‥別に。ただ‥倦怠いだけ。それに‥眠い‥‥‥」        
 倦怠い→だるい

そう答えながら、ソロは瞳を閉ざした。

「‥そうですか。とりあえずゆっくり休んで下さい。」

「うん…おや‥すみ‥‥‥」

それだけどうにか応えると、ソロは整った寝息を立て始めた。

その様子を見守りながらクリフトがそっと吐息をつく。様子を見る限り、昨晩の発熱と原

因は同じかに思えた。ソロが言うように、必要なのは休養なのかも知れない。

規則正しい寝息を繰り返すソロをしばらく見守ると、クリフトは静かに部屋を出て行った。



真っ暗な闇の中。

ぽつんと独り、ソロは立っていた。

ふ‥っと遠く灯った白い光に人影が現れると、シンシアが微笑みかけ背を向けた。

ソロがそこへ向かおうと足を動かしかけた刹那、すうっと彼女の姿が薄らぎ光も消える。

次にぽつんぽつんと現れた光には、両親の姿があった。

だが…それも同じように消え去ってしまう。

現れては消える風景は、懐かしい村の人であり、育った村の失われた景色であった。

ソロには触れる事も適わず消えてゆく風景。

やがて。それが現れなくなると、再び訪れた暗闇が、表情を失くした彼を包み込んだ。

漆黒の闇が途方もない刻を思わせる。

がっくりと膝をついたソロが、きつく閉じた瞳をゆっくり開くと、視界に白銀が飛び込ん

で来た。絹糸のような白銀になびくそれを、無意識に手を伸ばしたソロが一房掴む。

さらさらな銀糸と思ったそれは銀髪へと変わり、その持ち主がゆっくり振り返った。



―――ピ‥サロ。



切れ長の紅い瞳がスッと細められ、薄く形のいい唇からなにか言葉が紡がれた。

聞き取れなくて。ソロがもっと近寄ろうと肩を掴んだその手は、闇に沈んだだけだった。

それに気を取られたほんの僅かな間に、手にしていたはずの銀髪も消え失せる。

彼の嗚咽は声にならず、静寂の暗闇にただ大粒の真珠の涙だけが光っていた。



「う‥ん‥‥」

「…すみません、起こしてしまいましたか?」

静かに伝わる涙を拭おうと、絞ったタオルをソロの頬に添えたクリフトが、小さく謝る。

「あれ…ここ‥‥?」

「エンドールの宿屋ですよ。覚えてません?」

「…あ、そーか。」

「気分はいかがですか?」

「うん…大丈夫‥と思う。」

自分の額に手の甲を押し当て、ソロがぼんやり応えた。

「喉渇いてませんか? 先程ネネさんが差し入れて下さったレモネードがありますよ?」

「あ‥うん、飲む。」

ソロが応えながらゆっくり身体を起こした。

コップへ注がれたドリンクが、ソロへ手渡される。

「ありがと‥。…あ、美味しー。」

蜂蜜入りで少し甘めに作られた飲み物は、渇いた喉を心地よく潤してくれた。

「食事も召し上がれそうでしたら、何か貰って来ましょうか?」

コクコク‥と一気に飲み干したソロからグラスを受け取ったクリフトが、微笑みながら訊

ねた。

「んー、今はいいや‥。もう少し休んでからとるから‥。」

「そうですか。あ、ソロ。汗かいたでしょう? 寝る前に、着替えて下さいね。」

言いながら、クリフトが用意してあった着替えを差し出した。

「あ‥うん。」

「…私はちょっと席を外しますから、その間に着替え済ませて下さいね。」

着替えを受け取ったソロが、僅かに逡巡してみせたのに気づいたクリフトが、そう明るく

声をかけた。瞬間、ソロの表情が不安げに歪む。

「ソロ‥?」

あまりの心細気な様子に、何事かとクリフトが覗う。

「あ‥えっと…。後ろ向いててくれればいいからっ。出て行かなくてもいいよ!?」

「‥そうですか? では‥そうさせて頂きますね。」

不安な瞳に揺らぎながら言い募るソロに、クリフトが柔らかく笑んで返した。



「クリフト‥みんなはどうしてるの?」

慌ただしく着替えを済ませたソロは再びベッドに横になると、思いついたように問いかけ

た。外の明るさから見て、今は大体昼下がり‥といったところだろう。

「皆さんは予定通り聞き込みに出掛けてらっしゃいますよ。」

「そう‥。ごめんね、オレだけ予定こなせないばかりか、クリフトにも迷惑かけてさ‥。」

「いいえ、そんな事ありません。これから向かう王家の墓について書かれた文献に目を通

 してたんですよ、実は。」

「そうなの‥? じゃ…今日は出掛けない?」

「ええ。だから安心して休んで下さい。まだ辛いのでしょう?」

熱のせいで潤んでいる瞳に見つめられ、クリフトが優しく声をかけた。

「…ごめん。‥ありがと‥‥‥」

呟くように話すと、ソロがゆっくり瞳を閉ざした。

すぐ側で本のページをめくる音が、人気と共に伝わる。ソロはその微かな音に耳を傾けな

がら、再び夢の中へ落ちていった。

スースーと寝息を立て始めたソロを、クリフトが覗う。

『‥行かないで―――』

先程目を覚ます直前、同じように様子を窺い覗き込んだクリフトが聴いた小さな呟き。

終わりにする――そうソロは話していた。付き合ってるらしい恋人との関係を…

そのせいなのだろうか?

クリフトは、彼の消沈ぶりをそう判断していた。

だが‥‥

元々子供っぽいところのあるソロだが、ここまで幼さを見せた事はなかったはず‥。

不安に揺らぐ蒼の瞳はまるで、おいていかれる事に怯えた子供のようで‥

頼りなく、儚く思えた。



「クリフト‥どう?」

夕刻。ひっそり訪ねたマーニャが彼にソロの様子を訊いた。

「ええ‥恐らく熱の方は心配ないと思われますが…」

「なにか‥?」

「‥いえ。ただちょっと気になる事がありまして。…明日の昼間、少しお時間頂けますか

 ? ソロの事で、お伺いしたいのですけど‥」

「…いいわよ。明日、どこかで落ち合いましょ。」

重い表情のクリフトに何かを感じ取ったマーニャが、いつになく真剣に返した。

「ありがとうございます。姫様たちには、ソロは心配ないからとお伝え下さい。」

「ええ分かってるわ。じゃ‥頼むわね。」

それだけ言うと、マーニャは早々に部屋を後にした。



その後目を覚ましたソロは、用意されていた食事を済ませると、窓際に置かれた椅子に腰

掛け、夕闇迫る空を静かに眺めていた。

茜色の空が刻々と濃紺に染まってゆく‥

「…夜って嫌いだ‥」

窓の向こうに視線をやったまま、ソロがぽつんと呟いた。

「‥真っ暗な中に居ると、独りぽっち‥取り残された気がする‥‥」

「ソロ‥。」

クリフトが傍らに立つと、寂しげな肩に手を乗せた。

「…ごめん、変なコト言って‥。」

案じるような表情に、ソロが笑んで見せながら返す。

「ソロ‥よかったら話してみませんか?」

「え‥?」

「あなたが悩んでいる事‥あなたを悩ませている事をです。」

「クリフト…」

真剣な眼差しを向けられ、ソロの瞳が惑い揺れた。

「‥‥‥‥」

ソロは言葉を探すように俯くと、カタン‥と静かに立ち上がった。

そのまま自分のベッドへ向かい腰を下ろす。彼はその様子を見守っていたクリフトに目線

を向けると、瞳で促し招いた。

隣にクリフトが腰掛けるのを待って、ソロが重い口を開く。

「…クリフトはさ、一人旅って‥したことある?」

突然の問いかけに、クリフトは途惑いながらも「いいえ」とだけ答えた。

「そう‥。オレもさ‥村を出るまでは、旅自体経験なかったんだけど‥」

ソロはきゅっと膝の上で軽く組ませていた手に力を入れた。

「…村があんな事になって‥旅立つ事になった時‥一人旅だっていう気負いはなかったん

 だ。‥まあ、そんな事感じる余裕すら、なかったとも言えるんだけどさ。」

クスリ‥自嘲気味にソロが微笑んだ。

「でもね‥。ブランカを出てエンドールへ向かう道中は、思った以上に長くて。

知らない土地でたった独り旅をするのって‥いろんな意味で消耗したんだ。

それでも。昼間は視界が利くし、ひたすら前進して、先を目指す事が出来るから、まだ

 なんとかなった。問題は夜さ。暗い中知らない土地を進むのは無理だし、昼間の疲れも

 あるから休もう‥と思うんだけどさ。すっかり寝入ってしまう訳にもいかないだろ?

 陽が暮れて‥野営の準備とかしてる間はまだいい。でも…なにも出来る事がなくなると、

ただ周りの気配ばかりに気を張って‥それで…思い出すんだ‥

オレがたった独り‥残されちゃったってコトを‥さ…」

「ソロ…」

「この街でマーニャ達と逢うまで、オレは独りで旅をしていた。

 だから‥夜はちゃんと眠れない事が多くて大変だったんだけど…」

ソロはふとそこで言葉を切ると、上目使いにクリフトをちらりと覗き込んだ。そんな彼の

様子に気づいたクリフトと視線がかち合いそうになったソロが、慌てて俯き嘆息する。

「だけど‥さ。一度だけ‥ぐっすり眠れた晩があったんだ。…あの晩は、あいつがずっと

居てくれたから。人の気配を近くに感じて、安心したんだ‥と思う。」

「ソロ‥それは…」

「うん‥。オレが前に言ってた奴の事‥だよ。あの頃は‥[好き]だなんて考えもしなかっ

 た。そんな間柄じゃなかったし‥あいつの事は‥‥‥」



―――恨んでいた、憎んでいたんだから。



「…でも。もう終わらせるんだ。元々そんなの可笑しいんだし。間違ってるんだから‥

ただちょっと…あの時癒された孤独に、また囚われそうで不安になってるみたい‥で…」

だんだんと掠れてゆく声が涙に震えた。

「ソロ‥今のあなたはもう、独りじゃないはずですよ? 恋心とは比べられないと思いま

 すけど、それでも、あなたを思い・案じる仲間がいつでもそばにいるじゃないですか。」

優しく包み込むように話すクリフトに、ソロが涙に暮れながら頷き返す。

「…ちゃんと、分かってるんだ。みんな‥本当に心配してくれてるって…

 分かってるのに‥感情が追いつかなくて…ふ‥っ‥‥‥」

次々とこぼれ落ちてゆく涙を手で拭いながら、ソロがしゃくり上げた。

「ソロ…」

それは知ってしまった安らぎを手放さなくてはならない喪失感であり、幻よりも不確かだ

と自覚した想いの行方への失望。



―――最初からなにもなかったんだ。なにも‥。分かっていたつもりだったのに…



崩れてしまった想いを涙で流そうとしてるかのように、ソロはぽろぽろ泣き続けた。