『‥この子には父も母もありません‥

 ‥‥ソロ‥と‥‥独りぴったりでしょう、その子には‥‥』

漆黒の闇が広がる世界に、抑揚ない女性の声が冷たく響いた。

トンネルを越えた先の光溢れる世界は、たゆたう水の中よりも心細く寂しい場所だった。

唯一光の中に浮かぶのは、白い翼。

だがそれは、温もりも癒しも与えず、闇に融けた。



深夜。

ソロは激しい動悸と共に目を覚ました。

「…どうした、ソロ?」

隣で眠っていたピサロが、酷く魘されていたソロへ心配顔を向け、気遣うよう訊ねる。

「…ピサロ。…なんか、すごく怖い夢‥見た。」

「怖い夢‥?」

「‥うん。よくわかんないけど…」

ソロは言いながら、ブルっと躰を震わせた。半身起こしたソロが、身を抱くようにしなが

ら、ふとピサロとは反対のベッドサイドへ目線を移す。

「…クリフトは?」

「奴なら今夜は向こうの寝室で休んでる。」

「‥え。どうして‥?」

「気を遣ったようだな。昼間‥神官と何やら話し込んでただろう?」

「…あ。‥う‥ん‥‥‥そーだった…」

ソロが眸を揺らし、呟いた。

「…私では不安は晴れぬか?」

同じように身体を起こしたピサロが、そっと包み込むよう彼を抱き寄せる。

ソロはゆっくりピサロへもたれかかると、深く息を吐いた。

「どんな夢だったのだ?」

「…覚えてない。‥けど…ずっと昔から、何度も見てる夢だと思う…

 もう随分見てなかったけど。…きっとそう‥」

「内容は覚えておらぬのだろう?」

不思議そうに訊ねるピサロに、ソロは苦く微笑んで手のひらをすっと差し出した。

「…震えがね、治まらないの。あの夢の後は…。それに‥酷く寒く感じるんだ…」

小刻みに震える両手。声も微かに震えていた。

「ソロ‥。」

「…ピサロ。‥抱いて?」

「躰は大丈夫なのか‥?」

縋ってくるソロの顔を上げさせて、ピサロが確認するよう問いかけた。

「へーき。だから‥ね、お願い。…それとも、やっぱり厭‥?」

ピサロは小さく吐息をつくと、心細げな彼へ口接けた。

「厭な訳なかろう。‥知らぬぞ?」

しっとり重ねさせた唇を一旦離すと、そう呟いて再び唇を塞いだ。

緩やかに口腔を巡らせながら、するりと肩をはだけさせてゆく。

ゆったりした着衣は簡単にソロの肌を露にし、ぱさりとシーツに落ちた。



「ピサロっ‥ピサロ‥っ!」

温もりを求めるようなソロとの繋がりが深まると、ソロは熱に浮かされながら名を呼んだ。

両手を彼の広い背に回し、ソロは縋りつく。

「お願いっ…オレを独りにしないで‥っ‥ふっ‥ぅ‥」

あやすような口接けが降りると、ソロは夢中で貪った。

「安心しろ。お前を独りになどせぬ‥!」

「…ずっと‥居てくれる?」

「ああ‥ずっとだ。」

ソロはふわり微笑むと、内奥で弾ける飛沫を思い昇り詰めた。

満足顔なソロに安堵を覚えるピサロが、自身を引こうと躰を起こす。

「‥やっ。駄目‥もっと‥!」

ふ‥っと脱力していたソロだったが、出て行こうとする気配に敏感に反応し、ぎゅっと彼

を抱き寄せた。

「…お前はまだ本調子じゃないだろう?」

常ならば。確かに序の口‥といった所ではあるが。ソロの体力が極端に落ちている現在。

流石にこれ以上は不味かろうとピサロが渋面を浮かべる。

「いいの。このまま居るのっ。」

ぎゅうっとピサロを抱きしめて、ソロが口接けを強求った。

情熱的に交わされる接吻が、再び欲望を擡げさせる。

結局ソロが意識を飛ばしてしまうまで。熱い夜は続いた。



「…ん。」

翌朝。倦怠い躰を思いながら、ソロは目を覚ました。

「目が覚めたか、ソロ。」

「…ん。おはよう‥ピサロ。」

「ああ‥おはよう。」

腕枕をしていたピサロが、ソロの額にキスを落とした。

「躰は辛くなってないか‥?」

「え‥?」

「昨晩の事‥覚えておらぬのか?」

「え‥あっ。ああ…オレ‥?!」

がばっと跳ね上がると、ソロは躰中に施された赤い印に頬を染めた。

「…えっと。オレ…昨晩、ヘンじゃなかった? 困らせなかった?」

「変‥?」

「昔からあの夢見た後は、みんなを困らせてたみたいだから…。

 昨晩、久しぶりに見た気がする。…もう随分と見てなかったんだけど‥」

逡巡しながらポツポツと、ソロが俯きがちに話す。

「頻繁に見てたなら、何か覚えてはおらぬのか? どのような夢だったのか。」

「‥うん。判るのは‥女の人の声と、暗闇。それから‥白い光。

 …ね、よくわかんないでしょう?」

ソロが力無く微笑んで、拳を握り込んだ。今にも泣き崩れそうに眸が揺らいでいるのに、

懸命に感情を抑えようと唇を噛み締め俯く。小刻みに躯を震わせている事に気づいたピサ

ロが、そっと彼を抱き寄せた。

「‥夢は夢だ。思い出せぬと云うなら、それは必要ないからだろう。気に病むな。」

「…うん。」

「ずっとこうしてやっていても良いのだが。寒いのなら、湯浴みに参るか?」

温もりを与えるように抱いてやりながら、ピサロが柔らかく話しかける。

「お風呂‥使えるの?」

「ああ。お前が目覚める前に使ったからな。お前も行って来るか?

 なんなら付き合っても良いが?」

にや‥と人の悪い微笑を浮かべ、ピサロが付け足すと、ソロの頬に朱が走った。

「いい。オレ独りで大丈夫だもん。」

「では行って来い。長湯はするなよ?」

コクンとそれに頷いて、ソロはのっそりベッドから降りた。



ソロの姿が扉の向こうに消えると、独り寝室に残った魔王がひっそり嘆息する。

独り‥を厭うソロだが。

それでも時折独りになる事を望む――それを感じて、一人送り出したのだが‥

そうして独り泣くのかと思うと、もどかしさを覚えるピサロだった。



ポタリ…湯船に滴がこぼれ落ちた。

温めに張られた湯船に浸かったソロは、ピサロの予測通り密かに涙を落としていた。

ハラハラと伝う涙を止める術もなく、ソロは泣いていた。

理由はない。けれど哀しい。

幼い頃頻繁に見ていたその夢は、いつもソロに深い哀しみと孤独を齎した。

父が居て、母が居て、泣きぐずった時にはいつもシンシアが側に在った。

それでも‥その夢は幼いソロを不安で満たし揺さぶった。

もうあの頃のような子供ではないのに。

悪夢はやはりソロを今も苛む。

「ふ…っ‥く‥‥‥」

身を抱くようにしながら、ソロは口元を歪ませ嗚咽を漏らした。

「…クリ‥フトぉ。」

広がる不安から救いを求めるように、ふとその名をこぼして。ソロはブンブンと首を振っ

た。『ピサロと居たい』と選んだのは自分だ。それなのに、見えぬ不安を祓って欲しいと

求めているのは、クリフトだなんて。あまりに身勝手だろう‥と、ソロは歪んだ顔を拭う

ようバシャバシャ顔を洗った。



「‥おや、ピサロさん。ソロと一緒じゃなかったのですか?」

居間で朝食の支度を整えていたクリフトが、寝室から苦い顔を浮かべ出て来た魔王に声を

かけた。浴室にソロが入る所を見ていたので、てっきり一緒だと思ってたのだ。

「一人になりたがったようだったからな。‥だが今は‥神官、貴様を呼んでいる。」

「え…?」

「昨晩酷い悪夢に魘されてな。それからどうも様子が不安定なのだ。」

重い吐息を交ぜながら、魔王がぼそりと伝える。

「悪夢…例の件ですか?」

過日の魔物の件かと訊ねると、緩く首を振ったピサロが応えた。

「いや‥幼い頃からの悪夢だそうだ。…私には払えぬらしい、行ってやれ。」

「‥解りました。」

苦く云うピサロに微笑を返し、クリフトは急ぎ浴室へと向かった。



「…ソロ。あまり長く浸かっていると疲れるでしょう? そろそろ出ませんか?」

脱衣所から浴室に柔らかな声が届いた。ハッと顔を上げたソロが、硝子戸の向こうへ首を

向ける。バスタオルを広げて待っている人影に、ソロはまたくしゃりと顔を歪めた。

「クリフト‥!」

バタン‥と勢いよく扉を開けて、ソロを待っていた彼の胸に飛び込む。クリフトは用意し

ていたバスタオルで彼を包みながら、しっかりと抱き止めた。

「ふ‥ふぇ‥えん…っ。クリフトぉ…」

「一体どうしたんです、ソロ?」

ぎゅっと彼にしがみ着いたと思うと、勢いよく泣き出したソロに、困惑顔を浮かべながら

も優しく問いかける。だが、ソロはブンブンと首を振り、泣きじゃくるだけだった。



「クリフト居ないの‥厭だ…」

気の済むだけ泣いて。漸くその涙も勢いを弱めると、ソロがぽつんと口を開いた。

「どこにも‥行かないで…?」

縋る眸を向け、ソロが懇願する。クリフトは微笑し、額を合わせた。

「行きません。ちゃんと居ますよ‥?」

「‥だって。昨日居なかったもん。」

眉を寄せ唇を尖らせたソロが責める口ぶりでトンと緩く肩を叩いた。

「ピサロさんが居たでしょう?」

「‥クリフトも居ないと厭なんだもん。」

「背の事もありますから。 せめて痛みが引くまでは‥とも思ったんですよ?」

「大丈夫‥だもん。だから‥側に居て? ね?」

「解りました。本当はね、私もソロの寝顔が側にないと落ち着かなかったんですよ。」

「本当? オレ、嫌いにならない?」

「なりませんよ。言ったでしょう‥愛してると。」

「オレも‥クリフトが好き。居ないの‥嫌。」



やっと落ち着いたソロを伴って居間へ戻ると、ピサロがソファにどっかり腰掛けて2人を

待っていた。仕草で招かれ、ソロが彼の隣に座り込む。

「少しは落ち着いたか‥?」

「‥うん。ごめんね、ピサロ。それから‥ありがとう。」

クリフトから次第を聞いたソロが、ふわり微笑んだ。

「‥とにかく。まずは食事にしましょうか? ソロもお腹空いたでしょう?」

「オレ…サラダとスープだけでいい。」

「まだ食欲戻りませんか?」

「うん…。あのね、なんだか食べたいと思わないの。どれも好物だったのにさ、変なんだ

 けど。せっかく作ってくれたのに、ごめんね。」

「食の変化が起きてしまったのやも知れんな。」

申し訳なさそうにソロが話すと、ピサロが横から口を挟んだ。

「食の変化…?」

ソロが不思議そうにピサロを見やる。

「天空人が何を食すかは知らぬが‥人間のそれとは必要な食物が違うのかも知れぬ。」

「‥そう言えば。ルーシアさんは確か肉類駄目でしたねえ…。」

「そうだっけ‥?」

あまり覚えていないソロが、思い出すよう語るクリフトに答えた。

「‥とりあえず、食べたいと思うもの仰って下さいね、ソロ。」

ぽむ‥と頭に手を乗せて、ソロへ微笑みかける。小さく彼が頷くのを確認した後、クリフ

トは飲み物を取りに階下へ向かってしまった。

「…やっぱり、翼の‥せい‥かなあ?」

ソロがぽそっと口に上らせる。

「オレ…どっか変わった? 変‥‥?」

「‥少し痩せたとは思うがな。後は変わらぬだろう。」

怖々窺うソロに、安心させるようピサロが柔らかく話しかけた。

「ほんとに…?」

「ああ‥そうだな。面差しがほっそりした分、大人びたかも知れぬぞ‥?」

「え‥本当!? 大人っぽくなった?」

一転、嬉しげに訊ねてくるソロに、ピサロが苦笑する。確かに頬の肉が落ちたせいで、大

人びた雰囲気にはなって居るが…中性的イメージがより強まり、一層女性に間違われそう

な風体になったんだ…とは、流石に伝えられない。

「‥おや。なんだか楽しそうですね?」

盆を手に戻って来たクリフトが、明るいソロの顔を見てにこりと笑った。

「あのね、ピサロがね、オレが大人っぽくなったって。ね、本当?」

「そうですね‥確かにそうかも知れません。みなさんビックリしちゃうかも知れませんね。

今のソロを見たら。」

「ほんと!? じゃ‥もう女に間違われたりはしないかな?」

ワクワクと語るソロに聴いてた2人が顔を見合わせる。

「…えっと。それは‥難しいかも知れませんね。」

「どうして‥?」

「線が細くなりましたから‥。どちらかと言うと、女性に間違われそうです。

 でも…綺麗になりましたよ、確かにね。」

言葉に迷いながらも正直な見解を述べ、クリフトが微笑んだ。

「…なんか。全然嬉しくない〜。」

憮然となったソロが頬を膨らませ、ガッカリしたのだった。