「…ん‥」

柔らかな光に満ちた静かな部屋で、ソロは目を覚ました。

広いベッドの真ん中に一人眠っていた彼が、ゆっくりと躰を起こす。

「目が覚めたか?」

「…ピサロ。‥ここ…どこ?」

キョロっと周囲へ巡らせ、ソロが不思議そうに訊ねた。

見覚えある佇まいの室内だ。

「…あの別荘? でも‥どうして…」

言いかけて。ソロはサッと顔を曇らせた。

暗く湿った洞窟‥不気味な魔物に囚われた自分‥‥‥

俯き肩を震わせる彼に、ピサロが静かに歩み寄る。だが…

「‥来ないで!!」

そう叫ぶと、ソロは身を翻し窓枠へ足をかけた。機敏な動作にピサロが目を見張る。

その僅かな一刻に、彼は移動呪文を唱えてしまった。

「ソロ‥!」

余りにも素早い一連の行動に、間に合わなかったピサロが窓辺へ向かう。

呪文の光はとうに空にかき消えて。その行方は定まらなかった。





「ふ…っく‥。ぇ‥っ…ん‥‥‥えっ…く‥‥‥‥」

緑に埋もれた廃墟と化したその場所で。ソロは声を殺し泣き暮れていた。

光の中。そよそよと過ぎてゆく風と揺らぐ緑だけが、懐かしい情景と重なる故郷。

「…も、オレ‥‥やだ…よぉ‥‥‥」

このままここで朽ち果ててしまえればいいのに…と、シンシアの羽帽子を埋めた丘に額を

つける。悲痛に洩れた嗚咽と大粒の涙が地面へと滲みていった。

泣いて泣いて‥泣き崩れていたソロだったが。

不意に捕らわれていた時の執拗だったあの感触が蘇り、ブルっと恐怖と嫌悪が走った。

粘着質な体液がまだ残っているような錯覚に見舞われて。

身を抱きしめるよう腕を交差させる。

ぎゅっと己を抱くよう身を強ばらせていると、視界に移動呪文の光が飛び込んだ。

「‥‥‥!!」

ソロがハッと顔に緊張を走らせる。そして、再び移動呪文を唱えた。



ズザ…

乱暴な着地でやって来たのは、ピサロとクリフト。

だが、一足遅くソロに逃げられてしまった。

ピサロが小さく舌打ちし、すう‥と空に融けた光の弧を睨んだ。

「酷く警戒されてますね…。一体どこへ‥」

「…解らん。だが‥ここへ来た時同様、無意識に飛んだのだろう。ならば…」

もしや…といった程度でしかなかったのだが。ピサロは再び呪文を唱えた。





ソロが次にやって来たのは、白い石で出来た神殿跡地。

豊かな水を湛えるプールの前へと降り立った彼は、そのまま階段状になってる一角から

ゆっくりと躰を水に沈めていった。

階段を降りきると、水位は腰より上までくる。

ソロは冷たい水に着衣のまま胸まで浸かって、ごしごしと躰を擦り始めた。



先程の二の舞いは踏むまいと、目的地よりやや離れた場所へ降り立ったソロを追う2人は、

連携作戦を立て、神殿跡へと近づいて行った。

ゆっくりとした足取りで、クリフトがソロとの距離を詰める。

「…ソロ‥」

いつも以上に柔らかく、声をかけたのだが‥彼に気づいたソロは、再び魔力を集中させた。

しかし。それより先にクリフトの呪文が彼へ放たれる。

呪文封じ――マホトーン。

巧く彼の呪文を封じると、バシャバシャと水をかき分け遠ざかろうとするソロの前方に、

ピサロが立ち塞がった。

青い顔で踵を返したソロが、彼から逃れるようまろびつつ移動する。

「や‥! 来ないでっ!!」

ピサロがそれを追おうと足を踏み出すと、ヒステリックな声が響いた。

「ピサロもクリフトもっ、来ちゃ駄目!! ほおって置いてよ…!」

プールの真ん中で、身を抱くように縮こまったソロが叫ぶ。

「もう…もう…厭だ‥。オレを…見ないで…? お願い‥だから‥‥‥

 もう…ほおって‥おいてよ‥‥。ふう…っ‥。ひっく‥‥‥」

「ソロ…どうか落ち着いて下さい。とにかく水から上がって‥ね?」

「や‥! 来ちゃ駄目っ!」

そろっと彼の元へ向かおうと動いたクリフトを、敏感に捉えヒステリックに叫ぶ。

「何故だ‥? 何故我らから逃げる、ソロ?」

「なんで‥? 皆知ってるんでしょ? オレの酷い醜態を…。オレ…あんな魔物にまで‥‥。

‥‥なんで。生きてるんだろう…?」

あんなに何もかも奪い尽くされたのに‥とソロが虚ろに呟いた。

「…お前を連れ去った魔物は葬った。忘れてしまえ。あのようなモノなど。」

「‥じゃ、殺して?」

フッと暗い眸で嘲ったソロが、魔王へ目を向ける。

「…もう、疲れちゃった。だから‥‥お願い。」

「何を‥馬鹿な事を‥‥」

「だって…。本当は‥オレを殺したかったのでしょう? ね、いいよ?

 …それとも。汚穢れたオレには剣振れないかなあ‥‥?」

「な‥にを…言ってる‥? 汚穢れ…だと?」

ソロの言葉に途惑うピサロ。

もくもくと広がった黒雲から、ぽつぽつ雨が降り注いだ。

激しく叩きつけてくる強雨へ変わり、雷鳴が轟く。

閃光から遅れて届いた轟音は神殿を震わせるよう響き渡った。

「ソロ‥!」

パシーン‥音は雨にかき消されて。勢いよく頬が打たれた。

雷鳴に紛れて距離を詰めたクリフトが、ソロを叩いたのだ。

「そんな…哀しい事、仰っしゃらないで下さい!」

愁そうに眉を震わせ、クリフトがしっかり彼を抱きしめる。

「あれは確かにあなたの生命を喰らいましたが、それだけです。

ソロはどこも汚穢れてなど居ません。」

「その者の申す通りだ。お前は汚穢れてなど居ない。どこもな…」

「…ち‥がうもん。ピサロは知らないから…っ!

 オレ‥本当は‥‥ずっと、騙してたんだ。魔界で、オレは‥‥‥!」

ふるふると首を振り、ソロが涙を落とす。

「…私の兄とやらがお前に無礼を働いたそうだな。」

「な‥んで…?」

呆然と目を張ったソロがクリフトを窺った。

「‥アドンから報告を受けた。」

静かに話すピサロへ、再びソロが目を戻す。

「責められるべきは彼方であって、お前ではあるまい? 今度の件も、お前には何の非も

 ないのだぞ? ‥だから、そのように自身を蔑ろにせずともよいのだ。」

「でも‥‥。でも‥‥‥」

ねっとりと躯を這った忌まわしい感触が過る。あれは隠された秘所まで暴いたのだ。

「…や。」

ぽつっとソロが呟く。

「やだあ〜〜〜っ!!!」

躯を震わせ、強い力で2人を跳ね退けて。その場でガクガクとソロは全身を震わせた。

「もう…いやだ―――っ!!!」

その叫びに呼応したのか、稲妻がソロを貫く。

パリパリと雷を纏って、ソロの身体がふわり浮かんだ。

「ソロ…?」

稲妻は彼の服こそ切り裂いたが、彼自身にダメージは見られない。だが…

ビクンとソロが全身を痙攣させた。

「あ…。やだ‥っ、いやっ…! ダメ‥だ。まだ‥ダメ‥‥‥っ。」

己の両肩を抱きかかえ、惑うように、ソロが乱れた呼吸の合間に吐き出す。

帯電させたソロは、更にその光の鎧を強化し、ピサロもクリフトも見守るしかなかった。

呪文は確かに封じられているはずなのに。まるでギガデインに包まれたようなソロ。

その光はやがて聖なる輝きを帯びて、白銀へと変化した。

「いやあ―――!!」

苦痛に満ちた表情で、宙に両手足を突っぱねた瞬間、光の翼がソロの背からグンと伸びた。

聖なる光が収束すると、気を失ったのか、ソロの身体が傾ぐ。

難無く受け止めた魔王が彼の様子を急ぎ確認した。

あれだけ冷たい水の中に在ったのに、その身体は酷く熱かった。

「神官、戻るぞ。」

それだけ告げて、ピサロの移動呪文で3人は例の館へ引き返した。





濡れた躰を拭いて、新しい服へ着替えさせて…

クリフトは上着をどうしたものかと、その手を止めた。

寝台にくったりうつ伏せて横たわるソロ。その背には、拳大程の白い翼が一対有った。

淡い光を纏ったそれにそっと触れるクリフト。酷く敏感になってるのか、ただ触れただけ

で、ソロは苦悶の表情を浮かべた。

「…どうした?」

薬を持って来たピサロが寝台の傍らに居る神官へ声をかけた。

「あ‥ええ。翼の周辺が酷く痛むようでして‥。服を着せたら辛いかと…」

「‥ああ。発現したばかりだからな。

 恐らくそれを中心に、急激な変化を起こしてるのだろう。」

「…最悪のタイミングで訪れてしまいましたね。」

「ああ‥。」

コトリ‥と寝台横のサイドテーブルに盆を置き、ピサロがソロの様子を窺った。

「‥翼の発現も一端だろうが。急に無理を強いたからな、負担がより増加したのだろう。」

荒い呼吸を繰り返すソロを診ながら、ピサロが呟く。

高熱をそう診断し、ピサロは重く嘆息した。

シャツの背を大きくくりぬいた服をクリフトが着せる。

それを待って、ピサロは寝台の脇に腰掛けると、彼の躰を返しながら起こし、持参した薬

を口元へ宛てがった。

「…ソロ。少しは楽になろう。飲め…」

そう声をかけたものの。意識のないソロは、差し出されたそれを口に含む事もなく…

ピサロはごくっと毒々しい液体を自分で煽り、徐に唇を寄せた。

余程苦いのか、ソロは渋面を浮かべる。それでも2口程無理矢理含ませて、ピサロは彼を

横向きに寝かせた。

「…入り用なものを取って来る。それまでソロを頼んだぞ?」

スッと立ち上がったピサロが隣に立つ彼へ声をかける。

「はい。早めに戻って下さいね。」

「ああ‥。後は頼む。」



館を出ると移動呪文を唱え、ピサロは何処かへ向かった。

光の弧をぼんやり眺めていたクリフトが、小さく吐息を落とす。

「ソロ‥‥」

寝台の横で膝を着いたクリフトは、そっと翠の髪を撫ぜた。

苦悶に満ちた顔が、その感触に誘われて和らぐ。

『…殺して』

まさかそんな言葉が飛び出して来ようとは‥クリフトも思い至らずにいた。

それほどまでに、重く圧し掛かってる事実に、クリフトは瞳を曇らせる。

汚穢れ――などと。

ソロが気に病む事などどこにもないのに。…そう彼は捉えてるのだ。件の事件も‥

「‥困った子ですね、本当に‥」





ややあって。

館へと戻った来たピサロは、ツカツカとソロの眠る寝台やって来た。

「…特に変わった事は?」

「いいえ。静かに眠ってます。…苦しそうですけどね。」

微苦笑浮かべ、クリフトが返す。

ピサロは寝台の前で膝を折ると、そっとソロへ手を伸ばした。

「…それは、なんです?」

彼が懐から取り出したチョーカーを、クリフトが怪訝そうに覗う。

「呪文を封じる魔法道具だ。」

翠の飾石のついた黒いチョーカーを、魔王はそう説明した。

「‥それって。以前ソロを監禁した時に用いたものでは‥‥」

その後大変な思いをした事を知るクリフトが顔を顰める。

「それとは種類が違う。

 …あれは、呪術を施したものだが。これはただの魔法道具に過ぎぬ。」

「…それは‥星降る腕輪等と同様の品‥という事でしょうか?」

「そうだな。」

「…では。装備した者に負担が生じる事はないのですね?」

「…ああそうだ。目覚めたソロにまた逃げを打たれては適わぬからな…」

「確かに…」

呪文を駆使した追いかけっこは追う方が圧倒的に分が悪い。

それを実感したばかりのクリフトは、そう納得し吐息をついた。

「…とりあえず。なにか作って来ますね。ソロの事よろしくお願いします。」

朝からドタバタしていた為、まだ食事を採っていない事を思い出したクリフトがそう申し

出て部屋を後にした。



「…目が覚めた時が心配ですね。」

簡易な食事を済ませると、ぽつんとクリフトがこぼした。

「…そうだな。あれ程取り乱すとは‥思わずにいた。」

寝台に眠るソロを覗いながら、ピサロが静かに返した。

クリフトも同じように寝台へ目を移し、嘆息する。

「ええ‥私もです。ショックであったのは理解出来ますけど。まさか‥あのような…」

「‥ああ。詰られるより効いたな、あれは‥‥‥」

自嘲気味な微笑を浮かべ、魔王が苦しげに吐露した。

その面差しからも、彼の苦悩が窺えて、クリフトはひっそり吐息を落とす。

「ピサロさん…。」

ソロも酷く取り乱しては居たが、朝の騒動の始まりに酷く慌てていた魔王を思い出すと、

かける言葉も見当たらず、クリフトも口を閉ざしたのだった。